第1話  赤鬼の街

 かつて赤鬼と呼ばれたその男は、青錆が浮いたような顔色をして固まっている。
罵声を浴びせ唾を吐きつけたが身動きせず、脚で蹴りつけても文句ひとつ言わない。
俺はニヤリと笑いズボンのチャックを下ろす。勢いよく噴射された
黄金色のシャワー
微かに昨夜の
イエローストーンの香り、そして湯気が立ち込める。
 目を閉じる俺。こんな時にしか安らぎを感じられない。
それでも昔よりはマシになった。3、4年前なら背後からいきなり刺されてた。
と、思った矢先に
背後から殺気立った声。やばい、ズボンが濡れた。
振り向く・・・、
国家権力が目を三角にして喚いている。
  
「コラッ!銅像の前で何をしている!」
 至福の時間を邪魔しやがって。
ぶっ殺してやる!と、言いたい所だが、
今はこんな三角目の野郎の相手をしている場合ではない事に、今気づいた。
 
俺には、行かねばならない所があるんだ!
負け犬だと思われるのは癪だが、ここは知らんぷりを決めて煙に巻こう。
  
「ウッ!」 挟んだ!しかし・・・、知らんぷりだ。
 俺は痛みをこらえて、そそくさと目的の方向に歩き出した。
振り向く・・・、
ついて来る国家権力
 俺は気持ち早めに歩き出した。
振り向く・・・、
しつこいぞ三角野郎
 俺は最大限のスピードで歩き出した。
走ってはいない。
逃げてる訳ではない!
振り向く途中で電気屋のガラスに映る俺、
尻の振り方が滑稽だ。
競歩?バカバカしい!
再度振り向く・・・、
おまえは競歩の審判か?
 突き当たりの神社の隣りの古ぼけた建物。目的の場所はすぐに見つかった。しかし、
背中には厄介な奴がいる。
どう始末する?ダメだ!この街へ帰ってきて
まだ十分も経っていない。面倒起こせば大事な仕事が
パァーになる。
 
とにかく撒け!俺は細い路地を曲がった瞬間ダッシュした。

 この辺りの路地裏は迷宮だ。敵が迷い込むように、わざとそういう造りになっている。
赤鬼の時代の名残りだ。それがこの街の近代化を妨げている。
厄介な事は、この街の住人でさえ易々とは抜けられない。
しかし俺は、この路地裏を知り尽くしている。
そして俺は、誰も知らない秘密の抜け道を知っている。
 無我夢中で走ったら大きな通りに出た。NTTと郵便局が睨み合っている通りだ。
振り向く・・・、国家権力の影は見えない。
 一息吐くと、15、6の頃を思い出した。あの頃もよく
国家権力に追い掛けられて、
駅前通りから路地裏の
迷宮を抜けてこの辺りまで走ってきた。
10年経ってもあんまり変わらない。俺も、この街も。
変わった事があるとすれば、俺の心肺機能が低下した事ぐらいだ。
あの頃はこれぐらい走っても息切れする事などなかった。だからと言って、
タバコをやめたりはしない。己の身体を気遣うほどまだ老いてはいない。
余計な妄想を振り払うように、ラッキーストライクに火を点け思い切り吸い込む。
ストロークの激しい呼吸、その合間に侵入してきた
メイド・イン・U.S.A.の煙と、
秘密の抜け道を通った時に染み込んだ
ドブ川の臭いに噎せ返る。
涙目で腕時計を覗くと約束の時間5分前。
ロレックスのバッタ物は本物より正確だ。
どうやら、2年振りの故郷の景色を楽しんでる余裕も、衰えた自分の身体に意地を
張ってる時間も、今の俺にはないらしい。
 あの三角野郎のおかげで余計な道草を喰ってしまった。
しかし、この場所なら少し気合を入れれば間に合わない事もない。
別に間に合わなかった所でどうなるって訳じゃないだろうが、

時間厳守が俺のモットー
だ。
特に、初対面の時、先方から呼ばれた時、そして
危険の匂いがする時。
今日は全ての条件に当てはまる。
急がねば。
 走ろうとするが、足が上がらない。ここまで身体にガタが来ているのは予想外だった。
それでも何故か強力な引力に吸い寄せられるように歩き出す。
力を振り絞り最大限のスピードで歩き出す。
 骨董屋のガラスに映る俺、やっぱり尻の振り方が滑稽だ。競歩?いい加減にしろ!
ハッ!と気付いて振り向く・・・、競歩の審判はいない。
 人通りの少ない道を選んで目的の場所へ近付く。
別に見たくもないのに
赤鬼の城が視界に入ってくる。こいつも変わらない。
いつも上から、俺を見下ろしていやがる。
城と睨み合いをしている内に、例の古ぼけた建物が見えてきた。
 まだ三角の目をした
国家権力がうろついているかもしれないが、あまり時間もない。
神社の中を突っ走って行けば何とかなるだろう。
もう少しだ。

 組が解散してから、仲間はみんなカタギになった。それが賢い選択だ。
新しい法律ができてから、日本はヤクザ者が住みにくい国になった。
政治家なんて、昔はヤクザを巧く利用して国を動かしていたくせに、
世の中がうるさくなると手のひらを返したように締め出しやがる。
俺は政治家など信用しない。今の時代じゃ古臭いと言われるが、

仁義
を欠く奴は絶対に許さない。
まぁ、そんな性格のおかげで現在のこの様という訳だ。
 現在の俺といえば・・・?少なくとも1993年の日本の中で、指折り数えられるほどの
愚か者だ。カタギにもなれず、かと言って他の組に拾われる事もなく、
はたまた自分で組を興す才覚もない。
ただ、
『いつか、何か、デカい事を』という言葉だけが頭の中を駆け巡る。
誰かに言われた訳ではない。誰かに宣言した訳でもない。
いつからそんな風に考えるようになったのか?思い出そうにも思い出せない、
それほど昔から考えているのだろう。
『いつか』とはいつか?『何か』とは何か?どうしても『デカい事』
なければならないのか?漠然と夢想するだけで動かない自分に腹が立っていた。
 宙ぶらりんのまま過ぎた2年。色んな街を歩いた。
しかし、何でもあるはずの都会にも俺の探した
『何か』は見つからなかった。
いつ来るか分からない
『いつか』に苛つく反面、
いつ来るか分からない
『いつか』に俺は怯えている。
 そんなどうしようもない俺を使いたいと言ってきた奴がいる。
顔も名前も知らない、おまけに詳しい仕事の内容も聞かされてはいない。
ただ、そこへ行けば、
『何か』に近付けるかもしれないという
調子のいい予感だけが、俺をこの街へ舞い戻らせた。
俺の予感で当たった例しはないが。とにかく神社の中を突っ走ろう。

 走りながらバッタ物のロレックスを覗く。ギリギリ俺の中の決め事は守られそうだ。
   
「ウグッ!」 鳩尾(みぞおち)に激痛が走る。
 大きな松の木陰から伸びた足は、見事に俺を一撃で仕留めた。
今度は呼吸すらままならない。俺がのたうち回る姿を眺めながら、
にやけた笑みを浮かべてスーツを着た男が姿を表した。
この野郎・・・!顔を見上げた瞬間、もう一撃喰らった。口の中には鉄の味が充満する。
死ぬ目に遇うというのは、まさしく息のできない状態の時だ。
泣きたい訳でもないのに息が詰まると涙が出てくる。ここ何年も泣いた事がないのに、
今日に限ってどうしてこんなに
視界が滲むんだ?
   
「おまえは誰だ?」 声にならない。
 瞬きを数回繰り返すと元の視界が戻ってきた。そこで、もう一撃喰らった。
今度は身体的にではなく、精神的にだ。男は嫌味なくらい、にやけながら内ポケットから
黒い手帳を取り出した。
   
「警察だ!」 水戸黄門が印籠を出した時のように、
この男の頭の中では自分なりのテーマソングが流れているに違いない。
酔いしれていやがる。私服の
国家権力まで出てくるとは、あの三角野郎・・・、
立小便ぐらいで話を大袈裟にしやがって。これじゃまるで、
凶悪犯じゃないか。
   
「立て。」 襟首を掴まれ引き起こされた。なんて馬鹿力だ。
身長180p体重80s巨漢の俺をマリオネットのように軽々と吊り上げやがった。
見るからに身長160p台の小粒な身体でレスリー・チャンのバッタ物
のような顔をした男・・・、どうもただの刑事じゃないようだ。
だからと言って引き下がる訳にはいかない。拳を握り締める。
クソッ!拳に力が入らない。これでは反撃ができない。
 両手を後ろ手に掴まれて松の木に押さえ付けられた。なすがままだ。
手首に冷たい感触。嘘だろ?手錠まで掛けるとは、頭が
イカれてやがる!
   「何か、
やばい物でも持ってるんじゃないのか?」 偽者のレスリー・チャンは
俺の身体を物色した。やばい物?銃?クスリ?何も出てくるはずはない。
そんな物持ち歩くような馬鹿に見えるのか?それにしても酷い扱いだ。
立小便ごときで。
   「
広野栄一、取りあえず署まで来てもらおうか。」 
どうして俺の名を知っている?
振り返ると偽レスリーはパスポートらしき物を持っていた。
不覚だ!
偽造パスポートを何枚も持っているのに今日に限って本物を持ち歩いていた。
恥ずかしさを紛らすように俺は叫んだ。
   
「立小便捕まえてまで出世したいのか!」 奴の口がポカンと開いた。
   
「何を訳の分からん事を言ってる?」 奴の顔からにやけた笑みが消えた。
   
「だから立小便を、ウッ・・・!」 奴の拳が俺の言葉を遮った。
口の中は再び鉄の風味が広がる。おもむろに奴は、俺のポケットからタバコを取り出し
火を点けて吸ったと思ったら、いきなり
メイド・イン・U.S.A.の煙を俺の顔に思い切り
吹き掛けやがった!
   
「てめえ!この野郎!」 叫ぼうとしたが口の中に溜まった物のせいで
思うように声が出ない。睨み付けるのが精一杯の抵抗だった。すぐに奴の手が伸びる。
顎を掴まれ骨が今にも悲鳴を上げそうだ。この小粒な身体のどこに、
こんな力が潜んでいやがるんだ?
   
何だその目は?この変態野郎!」 何だって?俺の事を変態野郎だと?
クソッ!手錠さえなければ
ぶっ殺してやるのに。
レスリー・チャンのバッタ物みたいな顔をしたこの男は、
俺の中の殺したい奴ランキングで初登場第1位に輝いた。
 今度は奴の手が股間の方に伸びる。俺の顔から血の気が引いた。
やめろーっ!変態野郎はおまえの方だろうが!
俺にそんな趣味はない!やめろと言ってるだろう!
 
股間に激痛が走る。
   ワイセツ物チンレツ罪だ。 
全身から血の気が引いた。しまった!
三角野郎を撒くのに必死になって忘れてた。ズボンのチャックで挟んでから・・・、
露出したままだった。

                                         《次回につづく・・・》

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