追悼 枝雀さん

南彦根クリニック 上ノ山一寛 

 枝雀さんが亡くなってしまった。ちょうど私より一回り上の卯年生まれで、今年で還暦ということになる。還暦の誕生日を天国で迎えることになってしまった。中学高校時代ヤングリクエストのミッドナイト寄席で小米さんに出会って以来の一方的なおつきあいだった。当時深夜放送を聴く中高校生の間では仁鶴さんが突出した教祖的な人気を博していたが、小米さんの端正な噺ぶりも傑出していた。その後二代目枝雀を襲名し、爆笑王と呼ばれるまでに笑いを追求された。本年3月13日、自宅で自殺を図ったと報道されたときは仰天した。そのまま回復せず、とうとう4月19日帰らぬ人となった。

 改めて追悼番組を見た。「宿替え」「胴乱の幸助」。所作の隅々までサービス満載。そこまで笑わせなくてもと思えるくらいに徹底して笑いを追求していた。笑いころげながら、涙をとどめることはできなかった。この世には、人を笑わせて、楽しませて、自分は早く逝ってしまう人たちがいる。

 いくら、笑いを取っても満足しなかった。新しい笑いに挑戦続けた。身を削るような厳しい修練の日々であったろうと推測する。それに疲れたとき、うつ病の引力に負けてしまった。若い頃から「死ぬのが怖い病気」と闘って来られたという。枝雀さんの天才はうつ病との闘いのなかで輝きを獲得していったといえるだろう。

 枝雀さんはある時期から英語落語に挑戦を始めた。古くからの枝雀ファンには違和感を感じる人もいたようだが、あえて挑戦を続けた。海外講演もこなした。米朝師匠が人間国宝なら、自分はノーベル平和賞をもらうかも、と冗談めかしていっていた。それは「趣味としての落語」を楽しむ試みでもあった。あまりにも真面目な、笑いへの取り組みからの脱出の試みでもあったと思う。
いずれ、新しい着地点を見い出して生き生きとされたかもしれないが、かなわぬことだったかもしれない。天才の格闘の前に精神科医の容喙の余地は、あまり無かったのかもしれない。枝雀さん安らかに。

(滋賀県医師会報1999年8月号 緑陰随想より)




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