探索10日目


エニシダさんと、フォウトさんといっしょにすすんだ大乱戦。は、そこそこ、いいせいせきだった。 フォウトさんといっしょに、ながいことたたかうのははじめてだったけれど、 あらためて目のまえにたたかうさまを見ると、フォウトさんはとてもみがる。身軽。 トライアドチェインは距離をとってのたたかいにとても強いめんめんが集まっていて、 フォウトさんのぶきは、わたしたちのなかでももっともみじかいものにあたる。 (二ばんめはアルテイシアさんのスタッフ?だ) けれどフォウトさんはあんなにみじかい武器で、あっというまに間をつめてしまう。 水のうえをすべるように。と書くと、ちょっときれいすぎるかもしれないけれど、 あの、わたしたちにはないスピードをもったフォウトさんをみると、 すごく「うつくしさ」を感じる。 それは大輪の花や、いちめんの小麦に感じるような「うつくしさ」ではなくて、 すごくよくみがかれたフォークや、おはりこさんのゆびさきに感じるような、「うつくしさ」だ。 わたしは、速くはうごけない。わたしはフォウトさんではない。 けれどそのゆえ、わたしはフォウトさんを、そのたたかいかたを、いいなあと思う。 ---------------------------------------------------------- 道のさきをふさぐ、ひどくつよい火の気配にそなえて、 わたしもすこし、火霊のちからをつよめるために、べんきょうをした。 火のイメージは、わたしの魔法の、ねっこのほうにあるものだ。 ちろちろ、火がゆらめいて、いろいろなかたちに千変万化するように、 世界のもろもろにうつりかわる、ある「こんげんてき」な火が、 あらゆるそんざいのねっこにはある、と、仮定し、 その火にむかって呼びかけて、いろいろなかたちにうつりかわるよう、 命じる。 呼びかけはつたわる。なぜなら、その「こんげんてき」な火は、 もとはひとつのすごくおおきな火で、世界のもろもろは分割された個体のようにみえながら、 実は、ひとつの火にぞくするそれぞれの部分であるから。 もとにひとつであったものが呼びかけるのだから、聞こえないはずが、ない。 もちろん、そんな「こんげんてき」な火が実在していると思っているわけではなくて、 そういうイメージでいくと魔法がつかいやすい、ということ。 むかしは火はすごくこわかったのだけれど、 わたしというそんざいのねっこにも、実はちいさな火がもえていて、 それがゆらいでうつりかわり、わたしのかたちをとっているのだ、 と思うと、そこまでものすごく、にげたくなるほどこわいものでは、なくなった。 わたしのなかの火のけはい。わたしの好きなもののなかの火のけはい。 それらはみなひとつの火のなかにあって、わたしたちはともにつながっている、 のかもしれない。 目をとじて、まずゆっくりと息をはいて、はいて、はいて、 はききれなくなったときに、ふっ、と吸う、そのさいしょの空気が、 口と気孔をとおるときのひやりとした感じにまざって、 ちろりと小さなあたたかさのあることがある。 もろもろにゆらぎうつりかわる、火のけはいだ。 あるいはわたしの魔法のイメージがうみだした妄想であるのかもしれないけれど、 ときおりちろりとわたしをおとずれる火のけはいのことは、好き。 わたしのこわさとつきあっていくための、 これもひとつの物語のけいたいなのだろうか?

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