探索19日目


たかくふかく、けわしい山。山のなかで、たがいのぶじをいのって、はなれて、 
それでも、浅手でいられたのは、わたしたちチェインシャークだけだった。 
傷のことや薬草にすこしこころえのある、エニシダさんとわたし、 
それに、どうぶつをあつかえる、サフィさんのいるシャークによゆうがあったのは、 
結果として、よかった。 
イーグルとパンサーの隊のみんなを、てわけして、手当てして、はこんで、肩をかして……あたりに目をくばって。 
そのときはとても真剣で、すこし怖くもあったのだけれど、 
いますこし思いかえしてみると、 
なかまっていいな 
という、ちょとぬけたような感想が、いちばんにうかんでしまう。 

わたしたちはたすけあい、ふれあう。 
ちょうど20日まえ、この遺跡にはいるとき、たがいにすこしきんちょうしながら、 
それでも命とせなかをあずけると決めた、 
ちかいは、あのときのままに。……そしてしんらいは、あのときよりも強く。 
わたしたちはふれあう。 


もちろんわたしたちはおたがいにすべてを知っているわけではないし、 
生まれてからのそれぞれの歴史や、 
思い出や、 
家族やまなんできたことを、 
けっして知っているわけではない。 
ただ、いくつかの「命をかけた」たたかいと旅をつうじて、 
ふれあっているというにすぎない。 

ふれあうことについて。 
わたしたち生きものは、なにかをとおしてしか、ふれあうことができない。 
それはちょくせつてきな意味においては、はだをとおしたふれあいであったり、 
すこし「ちゅうしょうど」をませば、ことばをとおしたふれあいであったり、する。 
ことばもまた、音であるならば、音をつたえるくうかんなしには、 
文字であるならば、文字を書きしるす紙や皮なしには、 
つたわらない。ふれあえない。 
わたしたちはなにかの「ばいかい」とともにおたがいを知る。 

ばいかい、ということばは、れいばい、ということばともつながっていて、 
たとえばシャーマンが「精霊」や「神さま」を身におろすのは、 
みずからを精霊や神さまの「あいだにあるもの」、「ばいかい」とすることで、 
それゆえ、わたしたちはたとえば巫女のことを、「あいだにあるもの」、 
ミーディウム、 
「ばいかい」、とよんだりもする。 

ばいかいは、はなれてある異質なものたちをふれあわせるものだから、 
ばいかいは、異質なものたちがともにそれへふれることのできる、 
異質なものたちがともにもつことのできるものとして機能しなくてはならない。 
たとえばりんご、ということばと、りんごというぶっしつをばいかいに、 
わたしたちがふれあうことができるのは、 
きっとわたしたちが、りんごのことを、ともにわかちあうことができるからなのだと思う。 


ちかいと、しんらいと。 
ともにすごした時間と、 
たたかいと、 
遺跡のそとでのやすらぎと、 
そんざいかんと。 
かれらがここにいて、わたしがここにいて、 
そしてつまりわたしたちがここにいるのだという、 
そんざいかんと。 
わたしたちはいくつもの「ばいかい」をわかちあい、 
そこそこにふかい気もちをもって、いま、ともにまた、遺跡のなかへともぐってゆく。 

だれかとなにかをともにもつことは、うれしいことだと思う。 

ときにわたしは、 
わたしがわたしでなくなればいいのにと思う。 
おおきな世界のぜんたいのなかにとけこんでいって、 
そのまますべてのなかのひとつとなって、 
ただよいつづけられればいいのにと思う。……そうしたことを思いながら、 
夜、目をとじると、 
「わたし」がそのまま、目を閉じたままにどこかに消えてしまうような、 
くらやみのなかにゆくえをうしない、もどれなくなるような、 
そんなさっかくを感じる。 
そのさっかくはとてもこわい。 
けれどわたしは――そのくらやみの不明に、すこしの、あこがれもおぼえる。 
光のもとにはっきりとしたかたちをたもち、 
わたしとわたしでないものをくっきりとりんかくでくぎり、 
わたしがわたしでいる、 
そんな「けんぜんな」光のうちにあっては、 
えることのできないやすらぎが、 
どこからがなにであるかを「分ける」ことも、 
そこになにがあるかを「分かる」こともできない、 
不明のやみにまどろむやすらぎが、 
光をはなれたやみのなかの、 
どこかにはあるような気が、 
このごろ、するのだ。 

わたしたちはやみのなかでふれあう。 


わたしたち。ふしぎなことば。 
わたしはここにひとりしかいないし、 
「わたしたち」を形作るかれらはけっしてわたしではないのに、 
「わたし」「たち」で、かたられてしまう。 
それはわたしの複数形。 
けれど、「わたしたち」は、複数形ではなくて、 
ほんとうは複数形の顔をした、単数形であるのかもしれない。 
わたしたち、ということばで、わたしがかたりたいのは、 
――わたしが「わたしたち」ということばのうちに感じるあたたかさは、 
「わたしの複数性」ではなく、 
「わたしたちの単数性」であるのかもしれない。 


きょうはすごく、むつかしいことをかんがえた気がする。 
遺跡のそとは、たたかいがなくて、たくさんのことが頭のなかをめぐってしまう。 
また日がたったら、すこし、よみかえそう。 
わたしのかんがえがどこにたどりつくものかはわからないけれど、 
その漂流のみちすじを、ときにふりかえるのもいいことだと思う。

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