学校の紹介

沿革
明治25年7月1日  犬上郡 千松尋常小学校 創立 (彦根小学校から分離)
                       松原寺を借用して創立
        9月1日     現在の彦根市松原1丁目水主町に、民家を改造して移転
     27年2月1日     2階建新校舎竣工
    大正11年6月     現在の千松会館の場所に移転
大正12年4月1日  犬上郡 千松尋常高等小学校 改称
               (昭和12年市制後は彦根市に改称)
   昭和3年4月8日   小西うの氏教育基金寄付。それにより昭和11年に講堂竣工
昭和16年4月1日  彦根市 千松国民学校 改称
   18年4月1日  彦根市 城北国民学校 改称
   22年4月1日  彦根市立 城北小学校 改称
    37年7月1日   現 校歌制定
   53年4月1日  新校舎・体育館竣工、移転 (現校舎)
        7月8日    プール完成
平成14年7月6日  創立110周年記念式典

    
井伊直愛が初代PTA会長の頃          旧 校舎                小西講堂

旧校舎は私の義伯父の土地に立っていたそうで、ウチの嫁の学年が最後の卒業生。現新校舎の最初の卒業生がウチの妹の学年。 校歌の制定されたのは自分の生まれた年だと、最近になって知りました。 自分は旧校舎を走り回った悪ガキで、1周100mの狭いグランドで野球をしては、校舎に打球を当てたり、ガラスを割るのが楽しかった。
プールが無くて松原水泳場へ全校で歩いて行っていたが、泳いだ記憶よりシジミを足で取っていた想い出しか残っていない。 個人寄付で建設された講堂は立派で、ステージなどの建築様式の美しい流線型はハッキリと記憶に残っている。 寄付者の小西ばあさんの写真が飾ってあったが、物置には昭和天皇の写真も保管されていた時代でした。
校舎は2階の床の節穴から下を覗くと1階が見え、職員室の上の部屋から雑巾の汁を机に落としたりした・・・本当に悪ガキでした。 明治建築の校舎が倉庫として残っており、床がキシンで入るのが怖かった。 今となっては良い想い出を創ってくれたボロ校舎に感謝しています。



校歌
千千の松原 雲に映え  白砂によせる 波の音
妙なる楽と 窓に聞き  学びの庭に いそしまん
城北の子 われら

朝日 夕日に 輝きて  そびえて立てる 金亀城
祖先の偉業 しのびつつ  学びの窓に はげまなん
城北の子 われら

土の香 高き 田園に  ベルトの響く 仕事場に
文化の花を 咲かさんと  学びの道を きわめなん
城北の子 われら



学校周辺の紹介
松原、回転橋
  
松原の回転橋は、小学校の2年生まで有り、橋の真中にゼンマイのT型棒のような物を差込んで回すと中央を支点に回転し大型船が通過していた。 学校帰りに回転時間に合うとラッキーで写真のように乗せてもらっていた。(写真は私ではない、と思う) 回転している橋の上から見る大型観光船は手が届くほど近く、何度も飛び移ろうと思ったことがありました。 



松原水泳場
    
   現在の松原水泳場        子供の頃の松原水泳場           鳥人間コンテスト

子供の頃の夏の遊び場は、琵琶湖。 まずは魚釣り。 旧港湾にも彦根港にも歩いて5分と掛からないところに住んでいたのでコイ釣りとヘラ鮒釣りに明け暮れた。ボテジャコやハス、小鮎を釣ったりもした。 高校生になって雷魚をルアーで釣る事も始めた。
泳ぐのはプール知らず。 学校にプールが無かったのですが自然児が泳ぐのは、ほとんど琵琶湖の松原水泳場。 桟橋から飛びこんで、よく怒られた。 ここでも良くハスの投げ釣りをしていた。 学生時代にはウインドサーフィンを先駆的に始めたグループのひとりで、真っ黒に日焼けして原住民と呼ばれながらインストラクターをしていた。 その頃から鳥人間コンテストの会場になり、水上に建てられる滑走台の上に夜中に上がって飛びこもうとしたが、ビビッて帰った。(お笑い部門で飛びこんでいる人を尊敬しています)  最近では子供を、プールではなくて琵琶湖に接してもらうために泳ぎに連れて行っているが、どの子にも一度は溺れかけた経験をさせてしまった。
なぜ千々(ちち)の松原と呼ばれているのかは知りませんが 続・古今集にも「今日よりぞ千々の松原契りおく花は十帰り君は万代」(大蔵郷為長)や夫木集の兼仲朝臣など多くの古歌に残されている歴史有る白浜だったようです。



佐和山城と百間橋
佐和山城時代の古地図



関ヶ原合戦で佐和山城の落城直後の古地図と言われている「彦根御山絵図」

「冶部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と一般的に伝えられていますが、一説には「島左近と百間橋」と歌われるほどの松原内湖に架かる橋は壮大で、松原村の蔵屋敷との物資の輸送路に成っていたようです。(現在は村側の始点当りに少し改築されて残っています) 松原内湖は奈良時代から景勝地とされ、江戸時代に屋形船も行き交っていたそうです。 松原村には彦根藩の水軍「水主衆(かこしゅう)」が住み、藩湊としても領内から集められた物資を大津へ回送する保護をしていた。 内湖と琵琶湖を結ぶ水路は一ツ川から四ツ川まで有り、多くの船蔵が並んでいたようです。 内湖は大正時代に一部埋めたてられて運動場と水産試験所になり、太平洋戦争の食料増産によって学徒動員の干拓後は田畑となりました。 水産試験所の移転後は屋外水槽にギルを釣りにいっていましたが、そこに城北小学校が新築移転されました。  



滋賀大学
 
               講堂                     陵水会館               市民活動センター  

家が100mほどの場所に有ったので、毎日グランドで野球していた。 一緒に野球を始めた幼なじみは近江高校の甲子園初出場チームの主将。 二人で毎日毎日、野球していました。 よく校舎にも入りこんで遊んで怒られていました。 今は文化財として残されながら使用されている建物も自分たちにとっては懐かしい遊び場の匂いが残っています。 
同級生がヴォーリーズ宿舎(現在の市民活動センター)に住んでいて、遊びに行って変った建物だと感じた記憶が残っています。 





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