探索18日目


ひとりで生きることはだれにもきっとむずかしい。いや、だれにもきっとできない。 ので、わたしたちはだれかとともに生きてゆく。 それはなかまになる、パーティになるという意味であることもあるし、 ふうふになる、こいびとになる、という意味であることも、ある。 それはとてもあたりまえのことで、 ながく生きたひとならばだれでもそれまでのこいや、 それまでのあいや、 それまでたいせつにしてきたもののことを、 なんらかのあたたかさやいたみとともに、いだいている。 エニシダさんはすこしさみしそうなふんいきでわらいながら、 むすめさんのことを口にした。 葉にたまった朝つゆが、ふとしたときにはらりとこぼれるように。ぐうぜんのように。 ひとりで生きることはきっとだれにもむずかしい。 エニシダさんにもそれまでの道のりがあった。いや、だれにもあるのだ。 わたしはまだあまりに、ひとりで生きることのむずかしさや、 さびしさやつらさや、それがかいしょうされたときのよろこびを、 つまり、うえと、かわきを、 知らないだけなのだ。……わたしにはいつもだれかがいた。 こいについてはっきりとわからないのも、 わたしがそばにいてほしいひとに、 うえたことがないから? こいがよくぼうであるとするのなら、みたされてあるとき、こいはたち止まる。 そのときもしかすると、こいは好きとまぎれてまざって、こいとは、わからない。 ひとであるなら、もうすこしおとなになれば、 そのよくぼうはたとえばセクシャリティとかかわりあってゆくのだろうけれど、 わたしにとって、セクシャリティは、じめいのこと、しぜんのことで、 いつかときがきたときにだれかをうけいれ、次の世へいのちをつないでゆくことで、 こいとは、あまりかかわりがないようにおもえる。 わたしはひとが好き。こいはきっと、ひととする。あるいは亜人のひとと、する。 だからわたしのこいはセクシャリティとははなれたちてんで、 きっと、実る。 それはセイシン的なこいなのだ。 セイシン的。 ほんとうは、好きやきらいなんて、そんなもんだいよりも、 もっとセイシン的な、 もっとチュウショウ的な、 もっとケイジジョウガク的な、 もっと、そんざいや、真理や、にんしきについてのほうが、 わたしはずっとたいせつにかんがえてゆきたいことであるはずなのに、 旅をしていると、思っていたよりもずっとれんあいのはなしが多くて、 しだいに、きょうみが、そちらのほうへうつっていきそうになる。 旅びとというのは、こいばなし(こいばな?)に、うえているのだろうか? わたしもまた、こい、にはうえていないのかもしれないけれど、 こいばなには、うえていたりするのだろうか?

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