探索6日目


また、あまいいさんにおしえてもらったこと。 ものごとの『真のなまえ』をさがしだすことをたいせつにする、 魔法つかいたちののながれがあるという。 そのことじたいは話に聞いたことはあったのだけれど。 それはあるいみふるい、つまり「こてんてき」な魔法の考えかたで、 わたしがまなんだ魔法とはすこし、体系をことにする。 『真のなまえ』をさがしだすという考えかたは、 どこかに『真のなまえ』がある、ものごとにはみな『真のなまえ』がある、 という考えかたをもとにしている。 わたしたちのいるこの世界のどこかに、 わたしたちのしらない「真理」がきっと、宝のようにねむっているのだと、ふるい魔法つかいたちは言う。 もうすこしあたらしいてつがくにのっとったひとびとは、 世のなかのどこかに「真理」があるというのは、ただのおとぎ話にすぎなくて、 「真理」は、わたしたちひとりひとりがつくりだすものなのだ、という。 名を知るのではなく、名づけることで、わたしたちは『真のなまえ』にたどりつくのだという。 わたしはずっと『名』は、さがしだすのではなく、つくりだすものなのだと思っていた。 おまえはしかじかのなにがしである、と、 パンジーはむらさきである、と言うように。 わたしたちにとっての「ほんとう」は、おりなされるもろもろの日常のことばで、 そのおりものの奥ふかくに、まだなにかがひそんでいるのだとは、 わたしは思わなかった。 テクスト、ということばは、もともと、おりもの、という意味だそうだ。 おりものは布。布は服。服はなにかをかくす。服のひとつ奥ふかくには、 はだかの「ほんとうの」からだがある? わたしはわたしについて、もうすこしかんがえを深めてみてもいいのかもしれない。 わたしについて名づけられうるたくさんのことば、 わたしは雑草、 わたしはあるく、 わたしはみどり、 わたしはめばな、 わたしはアルクリーフ。 そうしたたくさんのおりなされたことばの奥ふかくに、 あるいは「ほんとうの」わたしの名がねむっているのかもしれない。 ……けれどもしかすると、 あたらしい魔法とてつがくが言うように、 「ほんとうの」 わたしの名などはどこにもなくて、 ただ「ほんとう」という名のまぼろしだけがあって、 わたしは、 いや、わたしをふくむ世界のすべてが、万有が、 とわに名づけられることなしに、ただぼんやりとほかのいろいろなものから、 ばくぜんと、くべつされているのかもしれない。 神についてふるい否定神学がかたったように、 ひとまずなにかではないもの、としてだけ、万有は名をもちうるのかもしれない……。 食べもののことから、考えが、すごくとおくへ来てしまったような気がする。 考えて、考えだしていくと、それが次から次へとつながっていって、 ながれながれて、もやいをとかれた舟のように、いつかとおい沖へでてしまう。 考えることは、好き。 どこかへつれていかれてしまう不安はあるのだけれど、 どこともしれないどこかへ流されていく、こんな感覚は好き。 世界のなかのことか、あたまのなかのことかというちがいはあるけれど、 わたしはけっこう、「ぼうけんしゃ」なのかもしれない。 (もちろん、世界のなかを旅していくのも好き) 旅することと、考えることといえば、 ことわざの、「考えるあし」を、 ずっと「考える足」だと思っていたことがあって、 ああ、歩いて歩いて歩きまわって考えることがだいじなんだなあと、 まじめに信じていた。 考えることだけができる生きものはいるかもしれない、 歩きまわることだけができる生きものもいるかもしれない、 でも、歩きながら考えることができるから、人間はえらいんだよ、 と、そういう話なのかと思っていた。 いまはちがうとわかっている。 けれど、ときたま、昔のじぶんの、まちがっていたかいしゃくのほうが、 なんだかすてきなもののように感じられることがある。 でも、そのかいしゃくは、「まちがっている」のだ。 「ちがう」と「ただしい」。 これも、むつかしいもんだい。 けれどとうめんのところは、わたしの「もんだいいしき」とは別のところだと思うから、 ひとまず、わきにどけておこう。 きょうもたくさんのことを考えた。 いつか島をでる日に、この日記ノートは、すごくたくさんのことでうまっているだろう。 きっとわたしは帰りの舟でそれを読みかえしながら、 ちょっとなつかしく、島での旅の日々と戦いを、思い返したりするのだ。 ……こういうことを書くと、メタ世界という世界のどこか小高い丘に、 「死にフラグ」という旗がたつのだそうだ。 なんのことか、かいもくわかりません。

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